人に合わせて演じているうちに、家に帰ると何をする気力もなくなる。
自閉スペクトラム症(ASD)の当事者やグレーゾーンの人から、こうした声はよく聞かれます。
その原因として語られてきたのが「マスキング(カモフラージュ)」でした。
ところが2026年に発表された研究は、少し違う答えを示しています。
この記事では、その研究が何を調べて何がわかったのかを、専門用語をかみ砕いて解説します。そして「じゃあ自分はどう考えればいいのか」まで一緒に整理していきます。
マスキング(カモフラージュ)とは?
マスキング(カモフラージュ)とは、「自閉症の特性が周りに気づかれないよう、意識的にふるまいを調整すること」です。
たとえば、本当は目を合わせるのが苦しいのに無理に合わせる。手をひらひらさせる動き(自己刺激行動)を我慢する。相手の話し方や相づちを真似る。
こうした行動がこれにあたります。
研究の世界では、このカモフラージュは大きく3つに分けられています。
カモフラージュの3つのタイプ
| タイプ | どんな行動か |
| 補償(Compensation) | 会話の台本を用意する、雑談のパターンを事前に練習するなど、社交をやりくりする技術を積極的に身につける |
| マスキング(Masking) | 自閉症的な特徴が出ないよう意図的に隠す。目線・表情・体の動きをコントロールする |
| 同化(Assimilation) | 集団に溶け込むためにふるまいを合わせる。違いが目立ちそうな場面自体を避けることも含む |
この3つを測るために使われているのが、CAT-Qという25項目の質問紙です。
なぜ人はカモフラージュするのか
理由はシンプルで、差別を避けたい、偏見の目で見られたくない、その場の一員でいたい、といった切実な動機からです。
そして、これまでの研究はその代償を繰り返し報告してきました。
強い疲労感、自分が誰なのかわからなくなる感覚、抑うつや不安の増加。
「隠すほど消耗する」という理解は、当事者コミュニティでも広く共有されてきました。
何がわかった?自閉症成人113人を調べた2026年の研究
結論から言うと、この研究では「カモフラージュそのものには、独立した悪影響が見られなかった」という結果が出ました。
研究を行ったのは、シドニー大学のブルーナ・ロイセンバーグ氏とアダム・グアステラ氏らのチームです。
論文は学術誌『Autism Research』に2026年に掲載されました。
どんな調査だったのか
- 対象は自閉症の成人113人。年齢は17歳から75歳まで
- 全員が社交不安を抱えており、その治療を受けたいと考えていた人たち
- カモフラージュ・社交不安・社会的応答性を質問紙で測定
- 同時に、抑うつ・心理的苦痛・日常生活の困難さ・生活の質(QOL)も測定
ここで出てくる用語を、先に整理しておきます。
社交不安とは?
社交不安とは、人から否定的に評価されることへの強い恐れのことです。
「変だと思われたらどうしよう」という感覚が中心にあります。
社会的応答性とは?
社会的応答性とは、人の表情や声のトーンといった社会的なサインを、どう受け取ってどう返すかという能力のことです。
生活の質(QOL)とは?
生活の質(QOL)は、身体の健康・心の健康・人間関係の質・住環境や安全といった4つの領域で測られました。
「階層的重回帰」ってどんな研究法?
この研究のカギは、階層的重回帰という統計手法です。名前は難しいのですが、やっていることは意外とシンプルです。
たとえば「アイスが売れる日は水難事故が多い」というデータがあったとします。
ここだけ見ると、アイスが事故の原因に見えてしまいます。
でも実際の犯人は「気温」です。
暑いからアイスが売れ、暑いから人が水に入る。
気温という要因を先に計算に入れてしまえば、アイスと事故の関係は消えてしまいます。
この研究がやったのも同じことです。
年齢と性別をまず計算に入れ、次に社会的応答性と社交不安を入れ、最後にカモフラージュを入れる。
そして「最後のカモフラージュを追加したとき、説明できることが増えるかどうか」を見たのです。
結果:単純に見れば関連あり、調整すると消えた
まず、単純な相関だけを見た段階では、これまでの研究と同じ結果が出ました。
カモフラージュが多い人ほど、心理的苦痛が強く、抑うつも重く、日常生活の困難さも大きかったのです。
ところが、段階的な統計モデルに入れた途端、この関係は消えました。
抑うつ・心理的苦痛・日常生活の困難さを強く予測していたのは、社会的応答性と社交不安の2つでした。
この2つを計算に入れたあと、カモフラージュを追加しても、説明できる部分は増えなかったのです。
生活の質についても同じでした。
社交不安が強く、社会面の困難さが大きい人ほどQOLは低くなっていましたが、カモフラージュは身体・心理・人間関係・環境のどの領域にも独立した予測力を持ちませんでした。
さらに研究チームは、カモフラージュを補償・マスキング・同化の3つに分解して同じ分析を行いました。
それでも結果は変わらず、どの下位尺度も独立した予測力を示しませんでした。
研究者たちの解釈
では、なぜこうなったのでしょうか?
研究チームが示した見方はこうです。
カモフラージュを測る質問紙と、社交不安を測る質問紙は、実は同じ心理過程を測っている可能性がある。
どちらも「自分が他人からどう見られているか」への過剰な注意が中心にあります。
だから通常のアンケートでは、この2つを切り分けることが難しいのです。
カモフラージュに帰せられてきた消耗や生きづらさは、その多くが「否定的に評価されることへの恐れ」を映しているのかもしれない。
研究チームはそう述べています。
「じゃあマスキングは無害なの?」よくある3つの誤解
この研究のニュースを見て、不安になったり、腹が立ったりした人もいるかもしれません。
「私のあの疲れは、なかったことにされるの?」と。
そうではありません。
よくある3つの誤解を、順番に解いていきます。
誤解1:「マスキングは無害だと証明された」
A.そうではありません。この研究が示したのは「無害である」ではなく、「社交不安と社会的応答性を計算に入れると、カモフラージュ単独の説明力が残らなかった」ということです。
むしろ研究者たちは、今のカモフラージュ尺度では社交不安と切り分けられていない可能性を指摘しています。
つまり「効果がない」のではなく「今の測り方では区別できていない」という話に近いのです。
誤解2:「疲れるのは気のせいだった」
A.違います。カモフラージュと消耗の関連そのものは、この研究でも単純な相関としてきちんと確認されています。
「人に合わせた日は動けなくなる」というあなたの実感は、データとも一致しています。
研究が問い直したのは、その疲れの背後にある仕組みのほうです。
誤解3:「原因と結果がはっきりした」
A.ここは特に注意が必要です。この研究は横断研究といって、すべての項目を一時点で測っています。
つまり、「社交不安があるからカモフラージュが増える」のか、「カモフラージュの努力が社交不安を悪化させる」のかは、この研究からは決められません。
方向は未確定のままです。
さらに、参加者は全員が社交不安を抱え、治療を希望していた人たちでした。
社交不安がそれほど強くない自閉症の人や、支援を求めていない人では、違うパターンが出る可能性があります。
回答もすべて自己申告のアンケートによるものです。自分の状態をどれだけ言葉にできるかによって、答えは変わります。
研究チーム自身がこれらを限界として挙げています。
当事者・グレーゾーンの人が、明日からできること
この研究をふまえて実生活で意識できることを、4つのステップに整理しました。
医学的な助言ではなく、考え方の整理として読んでください。
ステップ1:「マスキングをやめる」を目標から外してみる
「素の自分でいなきゃ」という目標は、実はかなりの高負荷です。
しかも職場や学校では、現実的に難しい場面も多いはずです。
この研究が示唆するのは、狙う的が別にあるかもしれない、ということです。
やめること自体を目標にしなくていい、と考えるだけで少し楽になる人もいます。
ステップ2:「否定的に評価される怖さ」に目を向ける
自分がどんな場面で消耗するのか、思い返してみてください。
「うまくできなかったらどう思われるか」という怖さが背景にありませんか?
もしそうなら、扱う対象はふるまいではなく、その恐れのほうかもしれません。
ステップ3:社交不安への支援を選択肢に入れる
社交不安には、認知行動療法(CBT)をはじめとする確立された支援方法があります。
カモフラージュそのものを直接扱う支援法よりも、研究の蓄積が厚い領域です。
ただし、この研究は「CBTを受ければ解決する」と証明したわけではありません。
因果の方向が未確定である以上、あくまで検討の選択肢のひとつとして考えてください。
受診や相談を考える場合は、自閉症の特性に理解のある医療機関・相談窓口を選ぶことが大切です。
ステップ4:環境のほうを変える余地を探す
忘れてはいけないのは、カモフラージュが「偏見のある環境への適応」として生まれている点です。
本人だけが変わる話にしないこと。
合理的配慮の相談、雑談量の少ない働き方、感覚刺激の少ない環境。
そうした調整は、恐れの総量そのものを下げてくれます。
この研究をどう位置づければいい?
最後に、この研究の立ち位置を整理しておきます。
| 観点 | この研究からわかること |
| わかったこと | 社交不安と社会的応答性が、抑うつ・苦痛・QOLの主な説明要因だった |
| わからないこと | 因果の方向。カモフラージュが不安を生むのか、逆なのか |
| 測定の課題 | 現在のカモフラージュ尺度は、社交不安と重なる部分を測っている可能性がある |
| 今後の課題 | 長期間の追跡調査と、面接や観察を用いたより精密な測定 |
研究チームは今後、時間をかけて追跡する研究や、アンケート以外の測り方が必要だと述べています。
一本の研究で結論が出る話ではない、ということです。
それでも、この研究には確かな価値があります。
「マスキングをやめさせる」という支援の方向性が、当たり前の前提ではないかもしれない、と問い直した点です。
さらに深く知りたい人へ
カモフラージュという概念そのものを、当事者の視点から体系的に理解したい人には、ハンナ・ルイーズ・ベルチャー著『ASDとカモフラージュ』(金剛出版)が参考になります。
CAT-Qという尺度の成り立ち、カモフラージュが起きる要因、そしてセルフ・コンパッション(自分への思いやり)の実践までを扱った一冊です。
研究の背景を知りたい人に向いています。
まとめ
- 自閉症成人113人を対象にした2026年の研究で、カモフラージュには独立した悪影響が見られなかった
- 抑うつ・心理的苦痛・生活の質を説明していたのは、社交不安と社会的応答性の困難さだった
- 補償・マスキング・同化の3つに分けても、結果は同じだった
- 「無害だと証明された」わけではなく、現在の尺度が社交不安と重なっている可能性が高い
- 横断研究のため因果の方向は未確定。参加者も全員が社交不安を抱えた人たちだった
もし今、人に合わせることで消耗しているなら、扱う対象は「隠すのをやめること」ではないかもしれません。
「否定的に見られる怖さ」のほうに目を向けてみる。その視点の切り替えが、次の一歩になることがあります。
つらさが続いているときは、ひとりで抱えず、自閉症の特性に理解のある専門家や信頼できる人に相談することも考えてみてください。
【出典】
Roisenberg, B. B., Boulton, K. A., Thomas, E. E., & Guastella, A. J. (2026). Does Camouflaging Predict Functioning, Distress, and Quality of Life for Autistic Adults? Autism Research, 19(4), e70199.
PsyPost「Social anxiety, not masking, may drive mental health struggles in autistic adults」(2026年8月12日)
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