「怖い」という感情が、生まれつき存在しない人がいます。
ヘビを触っても、お化け屋敷に入っても、刃物を突きつけられても、心がまったく波立たない。そんな女性が実在します。
彼女の本名も住んでいる場所も公表されていません。
研究者たちは彼女を「患者SM」と呼びます。
原因は、「ウルバッハ・ビーテ病」という極めて稀な遺伝性疾患です。脳の一部が石灰化し、恐怖を生み出す装置そのものが壊れてしまいます。
この記事では、ウルバッハ・ビーテ病の症状と原因を整理したうえで、患者SMの実話、そして2013年に明らかになった「実は彼女も恐怖を感じた」という実験結果までを解説します。
ウルバッハ・ビーテ病とは?
ウルバッハ・ビーテ病とは、皮膚・粘膜・脳に異常なタンパク質が蓄積する、極めて稀な遺伝性の病気です。
別名を脂質蛋白症(リポイドプロテイノーシス)といいます。
1908年にジーベンマンが最初に報告し、1929年にオーストリアの医師エーリッヒ・ウルバッハとカミロ・ビーテが詳しく記載しました。
2人の名前がそのまま病名になっています。
原因は、第1染色体にあるECM1という遺伝子の変異です。
ECM1は、皮膚や粘膜の「土台」をつくるタンパク質の設計図にあたります。
この設計図が壊れると、本来なめらかであるべき組織にガラスのような物質が少しずつたまっていきます。
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項目 |
内容 |
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正式名称 |
脂質蛋白症(リポイドプロテイノーシス) |
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原因遺伝子 |
ECM1(第1染色体 1q21.2) |
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遺伝形式 |
常染色体潜性(劣性)遺伝 |
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世界の報告例 |
約400〜500例 |
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患者が多い地域 |
南アフリカ・ナマクアランド地方 |
報告例は世界でわずか400〜500件ほど。日本ではほとんど知られていない病気です。
ただし、南アフリカのナマクアランド地方には患者が集中しています。少数の祖先が持っていた遺伝子が、その地域に濃く受け継がれたためと考えられています。
なぜ「恐怖」だけが消えるのか?
恐怖が消えるのは、脳の扁桃体(へんとうたい)という部位が石灰化して機能を失うからです。
扁桃体は、左右の耳の奥あたりに1つずつある、アーモンドくらいの大きさの神経の塊です。
役割をひとことで言えば、脳の火災報知器。
たとえば、道を歩いていて、足元でヒモのようなものが動いた瞬間、考えるより先に体が飛びのきます。
「ヘビかもしれない!!」と判断したのは意識ではなく、扁桃体です。
ウルバッハ・ビーテ病では、この火災報知器にカルシウムが沈着して硬くなり、やがて働かなくなります。
患者全員が恐怖を失うわけではない
ここは誤解されやすいポイントです。
ウルバッハ・ビーテ病になると必ず恐怖が消える、というわけではありません。
脳に何らかの変化が現れるのは患者の50〜75%程度。
そのうち扁桃体の石灰化が確認されるのは、およそ半数と報告されています。
さらに石灰化の程度や広がりは人によって違います。
患者SMのように両側の扁桃体がほぼ完全に失われるケースは、そのなかでも極めて稀です。
つまり、「ウルバッハ・ビーテ病=恐怖を感じない病気」という説明は、正確には半分だけ正しいことになります。
恐怖を知らない女性「患者SM」に何が起きたのか
患者SMは、アメリカに住むごく普通の女性です。三児の母として生活しています。
1986年11月7日、20歳だった彼女はアイオワ大学の神経心理クリニックを訪れました。
このとき登録された患者番号が46番。
ここから「SM-046」という呼び名が生まれています。
子どもの頃に両側の扁桃体を失って以来、彼女は恐怖を感じたことがありません。
ただし10歳より前の記憶には、はっきりした恐怖の体験が残っているといいます。
彼女は「恐怖を知らない」のではなく、ある時点から恐怖を失ったのです。
実験1:ヘビ、お化け屋敷、ホラー映画
2011年、研究チームは彼女を本気で怖がらせようとしました。
- ペットショップで生きたヘビとクモに触らせる
- 全米屈指の心霊スポットとされる廃病院ツアーに連れて行く
- 恐怖を煽る映像を見せる
- 3か月間、日常生活で感じた感情を記録し続けてもらう
結果は、すべて空振りでした。
ヘビを見た彼女は怖がるどころか強い興味を示し、もっと大きなヘビに触ろうとして制止されています。お化け屋敷では、驚かす側の役者を逆に驚かせました。
一方で、喜び・悲しみ・怒りといった他の感情は正常に感じられます。
失われているのは恐怖だけでした。
実験2:知らない人を「信用しすぎる」
1998年の研究では、別の問題が見つかりました。
見知らぬ人の顔写真を評価してもらうと、健常者が「近づきたくない」「信用できない」と判断する顔を、彼女は近づきやすく信用できると評価したのです。
さらに2009年の研究では、パーソナルスペース(他人に近づかれると不快になる距離)がほとんど存在しないことも報告されました。
相手が真正面に立っても、不快感がわかないのです。
もう一つ興味深いのが2005年の発見です。
彼女は人の顔を見るとき、目の周辺をほとんど見ていませんでした。
そして「目を見てください」と指示すると、恐怖の表情を読み取る能力が正常に戻ったのです。
恐怖がないことは「うらやましい」ことではない
恐怖を感じない人生は、一見うらやましく思えるかもしれません。
でも、実際は逆です。
彼女は生涯で何度も命の危険にさらされてきました。刃物で脅され、銃を突きつけられ、暴力を受けたこともあります。
それでも彼女は危険な人物や場所を避けようとしません。
警報が鳴らないからです。
研究者たちが彼女の本名や居住地を一切公表しないのは、彼女自身が危険を察知できないためです。
恐怖とは、不快なだけの感情ではありません。
私たちを生かしておくための、体に組み込まれた防御システムです。
【最新研究】実は彼女も恐怖を感じた!?2013年の実験
ここからが、この話のいちばん面白いところです。
長らく「扁桃体がなければ恐怖は生まれない」と考えられてきました。
しかし2013年、その常識が覆ります。
二酸化炭素を吸わせたら、パニック発作が起きた
研究チームは、患者SMを含む両側の扁桃体を失った3人に、35%の二酸化炭素を含む空気を一度だけ吸ってもらいました。
高濃度の二酸化炭素を吸うと、体は「息ができない」という信号を出します。
健常者でも強い不安が生じる実験です。
結果は予想外でした。
3人全員がパニック発作を起こしたのです。
生涯にわたって恐怖と無縁だった患者SMが、このとき初めて恐怖とパニックを経験しました。
恐怖には2つの入り口がある
この結果が示したのは、恐怖には少なくとも2つのルートがあるということです。
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恐怖のタイプ |
扁桃体は必要か |
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外から来る恐怖(ヘビ・暗闇・暴漢) |
必要 |
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内から来る恐怖(息苦しさ・動悸・窒息感) |
不要 |
外の世界の危険を察知するのが扁桃体の仕事です。
一方、体の内側から上がってくる「死にそうだ」という信号は、扁桃体を通らずに恐怖を生み出せる。
2016年には追試も行われました。
アドレナリンに似た薬を点滴で投与したところ、両側の扁桃体を失った一卵性双生児のうち1人がパニック発作を起こしています。
興味深いことに、発作を起こさなかったもう1人には「息苦しさをまったく感じない」という特徴がありました。
体の内側の変化に気づく力そのものが失われていたのです。
診断が13年遅れる病気:最初のサインは「しわがれ声」
ウルバッハ・ビーテ病でもっとも実用的に重要なのは、実は脳ではなく「声」です。
2024年に発表された系統的レビューでは、確定診断された154例が分析されました。
わかったのは次の3点です。
- 嗄声(しわがれ声)は全症例に見られた
- 68.8%では、嗄声が最初の症状だった
- 発症は平均で生後19か月、確定診断は平均15歳。診断までの遅れは約13.4年
生まれて間もない赤ちゃんが、いつまでもかすれた泣き声のまま。
それがこの病気の最初のサインです。声帯にガラスのような物質がたまることで起こります。
しかし、嗄声だけで診断にたどり着いたケースは14.3%しかありませんでした。
多くは皮膚症状が出てから、ようやく気づかれます。
主な症状
- 声:生後まもなくからのしわがれ声(ほぼ全例に出る)
- 目:まぶたの縁にできる数珠つなぎの小さなブツブツ
- 皮膚:治りにくい傷、点状の瘢痕、乾燥
- 口:舌が硬くなり、動かしにくくなる
- 脳:扁桃体・側頭葉の石灰化、てんかん発作、情動や記憶の変化
命に関わることは多くありませんが、根本的な治療法はまだ確立されていません。
現在は症状に応じた対症療法が中心です。
よくある疑問
Q1. 恐怖を感じない人生は楽ではないですか?
A.いいえ。恐怖は危険を避けるための警報です。
警報が鳴らない人は、危険のほうへ近づいてしまいます。
患者SMが何度も犯罪被害に遭っているのがその証拠です。
Q2. 遺伝しますか?
A.常染色体潜性遺伝です。
両親がともに変異を1つずつ持っている場合、子どもに発症する確率は4分の1になります。
両親自身には症状が出ないことがほとんどです。
Q3. 大人になってから発症しますか?
A.いいえ。多くは生後まもなく嗄声で始まります。
ただし気づかれないまま何年も過ぎることが多く、大人になってから診断されるケースは珍しくありません。
さらに深く知りたい人へ
患者SMの研究を率いた1人が、神経科学者のアントニオ・ダマシオです。
感情が「理性の邪魔者」ではなく、むしろ意思決定に欠かせないものだという考え方は、彼の著書『デカルトの誤り』でくわしく語られています。
感情と脳の関係をもう少し体系的に知りたくなった人には、入り口としてわかりやすい一冊です。
まとめ
- ウルバッハ・ビーテ病は、ECM1遺伝子の変異で皮膚・粘膜・脳に異常な物質がたまる、世界で約400〜500例の稀な遺伝病
- 脳の扁桃体が石灰化すると恐怖が消えるが、石灰化が起こるのは患者の約半数。全員が恐怖を失うわけではない
- 恐怖を知らない女性・患者SMは、ヘビにもお化け屋敷にも動じず、危険な人物も避けられないため何度も被害に遭っている
- 2013年、二酸化炭素を吸わせる実験で彼女は生涯初のパニックを経験。扁桃体は恐怖に必須ではないことが示された
- 最初のサインは生後まもなくの「しわがれ声」。診断までの遅れは平均4年と報告されている
恐怖は、消えたほうが幸せな感情ではありません。私たちが今日も無事に家へ帰れているのは、扁桃体が黙々と働いてくれているからです。
最後に、個人的な話
僕はかなりのビビりです。
後ろから声をかけられただけで、自分でも驚くくらい飛び上がります。普段は感情をあまり表に出さないタイプなので、そのギャップに周りが動揺しているのがわかります。
以前、興味本位で遺伝子検査を受けたことがありました。
約360項目の結果のなかに「扁桃体が大きめ」という一文があり、当時は「なるほど、だからビビりなのか」と妙に納得したものです。
(遺伝子検査の結果はあくまで統計的な傾向を示すもので、実際に脳を測ったわけではありません。念のため)
ただ、患者SMの話を知ってから、この結果の受け取り方が少し変わりました。
ビビりであることは、火災報知器がちゃんと鳴っているということ。
情けないと思っていた性質は、実は毎日僕を生かしてくれている装置でした。
そう考えると、後ろから声をかけられて飛び上がるのも、そんなに悪くない気がしてきます。
参考文献
[1] Feinstein JS, Adolphs R, Damasio A, Tranel D. The human amygdala and the induction and experience of fear. Current Biology. 2011;21(1):34-38. doi:10.1016/j.cub.2010.11.042 [2] Feinstein JS, Buzza C, Hurlemann R, et al. Fear and panic in humans with bilateral amygdala damage. Nature Neuroscience. 2013;16(3):270-272. doi:10.1038/nn.3323 [3] Khalsa SS, Feinstein JS, Li W, et al. Panic Anxiety in Humans with Bilateral Amygdala Lesions. Journal of Neuroscience. 2016;36(12):3559-3566. doi:10.1523/JNEUROSCI.4109-15.2016 [4] Cocchi C, Milanese A, Abdul-Messie L, et al. Laryngeal features in Lipoid proteinosis: a systematic review and meta-analysis. European Archives of Oto-Rhino-Laryngology. 2024;281(9):4555-4564. doi:10.1007/s00405-024-08713-x※文献情報はPubMedより取得。
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